中央大学 桑原 巧
本問を検討するにあたり、まず結論を述べます。
Xの主張は認められます。
以下、かかる結論に至った経緯を述べます。
まず、本件退学処分に司法審査が及ぶでしょうか。
本件退学処分は、XY間の在学関係という具体的な法律関係に関するものであり、法の適用により、終局的解決を図ることができるため、司法権の範囲内にあるといえます。
また、後述しますが、本件退学処分は、学生の信教の自由に関係を有するものです。
これに鑑み、団体の純粋な内部的問題として司法審査を控えるべき場合とはいえません。
よって、本件退学処分には司法審査が及びます。
では、本件退学処分の取り消しが認められるでしょうか。
国立大学法人の退学処分の取り消しは、行政事件訴訟法第30条が適用され、行政庁の裁量処分の取り消しとして、裁量権の逸脱、濫用があった場合に認められると考えます。
そして、退学処分が、その事実の基礎を欠くか、事実に対する評価が明白に合理性を欠いた場合に、社会観念上著しく妥当性を欠く処分だとして、裁量権の逸脱、濫用が認められると考えます。
本件退学処分は、Xが必修科目である本件授業に参加せず、Yが、Xの卒業要件が満たされていないと評価したため行われたといえます。
そして、Yに事実の誤認はみられず、その事実の基礎は欠いていません。
では、Xの卒業要件が満たされていないとした評価が、明白に合理性を欠かないか検討します。
第一に、授業自体が違憲とならないでしょうか。
違憲となれば、この評価は、違憲な授業への不参加を根拠としたものとして、明白に合理性を欠くため、これを検討します。
まず、国立大学法人Yが本件授業を行うことは、20条3項が禁じた、国が行う宗教教育その他の宗教的活動にあたり違憲とならないでしょうか。
そもそも、20条3項の趣旨は、宗教が国家と結びつくことで、他の宗教に対する弾圧や、宗教団体の堕落、国政の機能不全が起こることを防ぐ点にあります。
そのため、国家と宗教との完全な分離が理想です。
しかし、宗教は、外部的な社会事象としての一面を持ち、さまざまな場面で社会生活と接触しています。
とすれば、国家が社会生活に関与するにあたっては、宗教とのかかわりあいを生ずることを免れえません。
また、完全な分離を貫こうとすれば、宗教団体の有する文化財の保護ができないなど、かえって社会生活の各方面に不合理な事態が生じかねません。
かかる見地より、20条3項は、国家と宗教とのかかわりあいを全く許さない、とするものではなく、相当限度を超えるかかわりあいを排除するものと考えるべきです。
そこで、20条3項における宗教的活動とは、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になる行為をいうと解します。
そして、これらは、外形的側面にとらわれず、行為者の意図、一般人の評価等も考慮し、社会通念に従って客観的に判断します。
まず、本件授業の外形的側面を検討します。
神社の祭典とは、神社神道における儀式であり、神を招き、慰め祈願するものです。
禅寺での座禅とは、禅宗において、悟りを目指すための修行法です。
教会のミサとは、カトリックにおける儀式であり、聖書朗読などを行うものです。
これらは、外形的側面だけ見れば、明らかに宗教的行為です。
しかし、本件授業は、あえて大きく異なる三つの宗教の体験を用意しています。
とすれば、本件授業の目的は、複数の宗教の信仰の実態に触れ、これらを比較分析することで、宗教という人類の普遍的精神活動を、学術的に解明、研究することにあると考えられます。
そのため、その目的は宗教的意義を持ちません。
また、大学が宗教を研究対象として観察、分析したとしても、学生の信仰信条に直接的な影響を与えるとはいえませんし、一般人の宗教的関心を特に高めるともいえません。
そのため、その効果は、宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になりません。
したがって、本件授業を行うことは、20条3項が禁じた、宗教教育その他の宗教的活動にはあたりません。
さらに、宗教体験を行うといっても、大学が研究における観察、分析の素材とするに過ぎないため、宗教団体に優遇的な地位、利益を与えるとはいえず、20条1項後段の特権にもあたりません。
よって、授業自体は違憲となりません。
以上より、Xの卒業要件が満たされていないとした評価は、かかる点においては、明白に合理性を欠くとはいえません。
第二に、Yに、代替授業の要求に応じる憲法上の義務があったでしょうか。
Yにかかる義務があったとすれば、Yはそれを果たすことなく、Xの卒業要件が満たされていないと評価したことになり、これは、やはり明白に合理性を欠くため、これを検討します。
この点、退学処分は、権力的なものです。
そして、権力的処分は自由を制限するものですから、自由の基礎法たる憲法の秩序が妥当します。
とすれば、大学は退学処分の判断において、学生の人権に配慮をする義務を負います。
一方で、大学は学問研究の中核を担う団体であることから、23条の学問の自由に基づき、内部自律権が保障されます。
とすれば、学生の人権と大学の内部自律権とが対立する場合、これを調整する必要があります。
そこで、学生が人権に基づく正当な理由から必修授業に参加できない場合には、大学は、その授業の目的を損なわず、また、その運営に支障をきたさない限りにおいて、代替措置の要求に応じる憲法上の義務があると考えます。
まず、Xに正当な理由があったでしょうか。
Xが本件授業に参加しなかったのは、自らの信じるキリスト教以外の宗教の、宗教的行為をしないためです。
これは、宗教的行為をしない自由として、20条1項前段および2項の信教の自由により保障されています。
したがって、Xには人権に基づく正当な理由があるといえます。
次に、代替授業をとれば、確実に本件授業の目的を損ない、または、大学の運営に支障をきたしてしまうといえるでしょうか。
この点、そうならない代替授業として、たとえば、本問の3つの宗教的行為につき見学させ、そのレポートを課す、といったものが考えられます。
これならば、宗教信仰の実態をつぶさに観察することができ、複数の宗教の信仰の実態に触れることで宗教を解明、研究する、という本件授業の目的を損ないません。
また、大学側の負担としては、レポートへの対応が増える程度であり、その運営に重大な支障をきたすともいえません。
したがって、Yは、本件授業の目的を損なわず、また、大学の運営に支障をきたさないような代替授業をとりえました。
よって、Yは、Xの要求に対し、代替授業を開講する憲法上の義務があります。
しかし、Xがキリスト教徒であることを理由に、Yが代替授業を開講することは、政教分離原則に反し、違憲なものとして、不可能とならないでしょうか。
法は不可能を強いないので、開講が不可能であれば、やはり義務は否定されるため、これを検討します。
まず、20条3項の宗教的活動にあたらないか、先に述べた基準により判断します。
この点、代替授業の開講は、熱心な信仰のため授業を受けられない学生の、教育の機会を保障するためのもので、いわば身体障碍者への配慮と同様であり、その目的は宗教的意義を持ちません。
また、代替授業が、他の学生と不公平な形でおこなわれなければ、その効果も、宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になりません。
たとえば、先に述べた代替授業ならば、受講の手間や拘束時間は他の学生と同じですし、体験する分の負担をレポートとして課すことで、公平を図れます。
したがって、このような代替授業ならば、20条3項の宗教的活動にはあたりません。
そして、このような代替授業ならば、他の学生に公平な形である以上、特定の宗教団体の構成員に、優遇的な地位、利益を与えるものとはいえないため、20条1項後段の特権にもあたりません。
さらに、Yは、代替授業を取るべきかの判断にあたり、Xの不参加の理由が信仰上のものかを判断する必要があります。
この際、Yが宗教の内容に深くかかわることとなり、政教分離原則から導かれる、公教育の宗教的中立性に反さないでしょうか。
この点、その理由が信仰上のものか、単に授業を怠ける口実なのかの判断について、Yは、Xの説明する信条と参加拒否との、合理的関連性があるかを確認する程度の調査をすれば足ります。
したがって、宗教の内容に深くかかわる必要はなく、公教育の宗教的中立性にも反しません。
よって、代替授業の開講は、政教分離原則に反さず、不可能とならないため、Yの義務は否定されません。
以上より、Xの卒業要件が満たされていないとした評価は、Yが代替授業の要求に応じる憲法上の義務を果たさずに下されたといえ、これは明白に合理性を欠くものといえます。
第一第二の検討から、Yの下した退学処分は、社会観念上著しく妥当性を欠き、裁量権の逸脱、濫用にあたるため、取り消しが認められます。
以上の経緯により、Xの主張は認められます。
以上
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